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04.主題講演
「非戦・降伏という選択」 ―ウクライナ戦争から考える― 水戸 潔
ただいまご紹介いただきました水戸です。 みなさんご承知の通り、今年2月24日突如ロシアがウクライナに武力侵攻してから8ヶ月が過ぎました。ロシアのプーチン大統領は、この行動は「特殊軍事作戦」であり、当初数日で終わると豪語しておりましたが、終わるどころか今日で約8ヵ月経過し、なお収束の見通しはありません。人の命、社会インフラの毀損は止むことを知りません。 この様な事態に対し、マスメディアは、特にテレビの報道は、興味本位にこの情勢を分析して視聴者に情報を提供しているように私には思われてなりません。これを見ているとテレビの将棋か碁の解説番組を見ているような錯覚に陥りそうです。 この様な戦況の成り行きに対する興味本位の関心ではなく、この様な事態を起こさない、あるいは起こりそうになった時、どう対処するのが尊い命と社会インフラの毀損を最小化できるのか、そして平和につながるのか今日は根本的に考えてみたいと思います。 最初に、ウクライナのNATO加盟意志がロシアに脅威を与えているというロシアプーチン大統領のウクライナ侵攻のレトリックに対し(その他にも複数の理由があげられていますが)、それは理由になっていないということ、つまりプーチン大統領の侵攻理由には正当な根拠がないということから確認しておきたいと思います。 そのことは、「ネットエクレシア信州」というネットページの中で、ペンネームで、タケサト・カズオという方が「ウクライナにおける戦乱と平和の回復」という主題の中で適確に述べており、私はそこからそのことを学びました。→共有画面-1 それは、そもそもウクライナが紛争を抱えている現在、それはNATO加盟の条件に合わないので加盟できないという現実です。そのことは、プーチン大統領も知っているはずなのにこの様なレトリックを使っているのです。 さて、単刀直入に、このような事態になる前に、ウクライナには、戦うこと以外に他の選択肢はなかったのでしょうか? これは、この戦争がかくも長引き、夥しい命の犠牲と瓦礫の山の荒寥たる風景を見たがゆえの「だから、ゼレンスキーの判断は間違っていた」という事後の状況判断ではありません。 こちら側に落ち度がなく、攻められそうになっても、あるいは攻められても非戦・降伏という選択をすべきであるという私の考えは、今から17年前、2005年6月18日の私の「戦争体験をこえて」という講演の中ですでに表明したもので、それは今も変わりません。 →共有画面-2 戦争において最も痛ましいものは、何の罪も落ち度もない幼子や、抵抗・防衛の手段を持たない弱者(母親、病人、老人、障がい者など)の命の犠牲です。これを目の当たりにすると、非戦・降伏という選択をすることが、戦うという選択をすることよりはるかに犠牲が少ないと思われるのです。 その対比を、共有画面-4に揚げておきました。これは2005年の講演の時に示したものですが、もう17年も経ちましたので、現在の状況に合うように表現を修正しています。 さて、この講演の中で、非武装、非戦が最も犠牲が少ないということの例として、沖縄慶良間諸島の前島の出来事を紹介しました。 さて私はこの事例を非武装非戦が犠牲の最小化につながる道だということを示したつもりで引用しました。ところが、私の講演の記録を読んだある人が、私に「水戸さん、それは相手がアメリカ軍という紳士的な軍隊だったからであって、これがナチの軍隊のような残虐非道な軍隊であったら、こうはならなかったと思う」と言いました。 そうしたら、なんと、こんな事実が分かってきました。 この非武装地域宣言は6月12日、アメリカを通じて、ヒトラーに通告されました。そして、6月14日、ナチス・ドイツ軍は、整然とパリに入城します。その時、パリの市民が涙を流してドイツ軍の入城を見ている写真が残っています→共有画面-8 パリ市民は涙を流していますが、この時パリでは一人の死者も、一個の建造物も破壊されることもなかったのです。前島と同じ事が実はその5年前にフランス・パリですでに起こっていたのです。私は勉強不足でこの事を知らなかったので、2005年の講演の時、この話はしませんでした。 このパリ無血入城の様子をウイリアム・シャイラーというアメリカの新聞記者が「ベルリン日記」(筑摩書房、1977)と言う本に書いていますが、ナチス・ドイツ軍侵攻後(9日後)、彼シャイラーがホテルを出てパリ市内に行くと、なんと子ども達は公園でシーソー遊びをしており、大人はセーヌ川で釣り糸を垂れていたと書いています。→共有画面5-3 私は、非戦降伏をことさらにハッピーに示そうとしてこのような引用をしたのではありません。戦争が勃発したとき、あるいは攻撃が始まろうとするとき、非戦・降伏と言う選択が、その時の犠牲を最小化するという実例を示したかったのです。しかし、非戦・降伏の後はそう甘いものではありません。 しかし結論として言うならば、この事態に対して決着をつけたのが結局軍事であった事は、歴史の示すところであり、例えば1966年に製作された有名な映画「パリは燃えているか」などを観れば明らかです。 しかし、それで良いのか。つまり最後は軍事で決着をつけてもらうということでよいのか。ここに私たちが克服しなければならない課題があります。 そしてそれを裏付ける法的根拠として、いまは非武装地域の攻撃禁止、無防備の民間人の殺戮禁止という国際禁止条約があります。これがジュネーブ条約第一追加議定書です。 →共有画面9,10 第二次世界大戦終了後、戦時における人道上の守るべき規定を定めた国際条約・ジュネーブ条約は1949年に定められ、2019年現在、世界196カ国が締約しています。もちろん日本も締約しています。その後これに追加する形で、1977年、第1追加議定書ができて、この中に「非武装地域の攻撃禁止規定」が盛りこまれました。 ちょっと横道にそれますが、この第一第二追加議定書について、共有画面10-1をご覧下さい。他の国はほとんど1980~90年代に早々と締約しているのに日本は非常に遅く、2004年迄締約しませんでした。 私の知る限り、締結国196カ国の中でダントツに遅い部類に入ります。これは不自然に見えませんか? 実はアメリカは、この追加議定書には今もって締結も加盟もしていません。ここに日本の批准締結が遅れたヒントがあるように思いますし、研究の価値があると思いますが、今日の主題とは離れますので、このくらいにしておきます。 本題に戻ります。共有画面-3に上げておきましたが、もしウクライナが中立を表明し、NATO加盟を放棄し、ウクライナ全土の非武装地帯宣言を発出して、非戦降伏を表明したら、ロシアはもうそこで、ウクライナを侵攻する口実はなくなるのです。レジメで「プーチン大統領の侵攻口実をゼロに還元する」と書いたのは、そういうことです。 韓国から参加されている方もいるのに、こんなややこしい言い回しを使って申し訳ありません。 さてレジメにも書きましたが、今は地上の10センチ四方の物体でも明瞭に認識できる人工衛星が地球を回っており、カメラを備えたドローンが飛び交い、市民のほとんどはカメラ付き携帯電話を持つ時代です。 国際社会が監視している中で、ロシアは非武装地帯宣言を出したウクライナに侵攻し、無抵抗の国民を殺害し、学校や病院、教会などを無差別に破壊するでしょうか。もしそれをやるなら、ロシア自身が批准締結しているジュネーブ条約第一議定書に、明確に違反します。 しかし、それでも、現在のプーチン大統領の本音のイデオロギーや思想を見ると、残念ながら無駄な武力は使わないにしてもウクライナを侵攻し、ウクライナをロシアの属国にする可能性が高いでしょう。 ここからが次の課題です。 いま言ったシナリオについては、さまざまな研究、検討がなされていますが、私は①宮田光雄の「非武装国民抵抗の思想」(岩波新書 1971)と、②マイケル・ランドルの「市民的抵抗」(新教出版社 2003)をあげておきたいと思います。→共有画面6、7 侵攻支配された国民が非暴力によって侵略国に対して抵抗する方法として、例えば「不服従・非協力」「サボタージュ」「ストライキ」「デモ」「抵抗のシンボル=サイン、リボン、バッジ」、「印刷物/ビラ」「地下放送」「国際社会への働きかけ(経済支援と制裁)」など、非暴力による粘り強い行動が、一つずつ実を結んで行きます。 私はこれらに加えて、新しい手法として「普段からSNSを使った非暴力平和勢力のネットワークを構築しておくこと」、いま辺野古や土砂搬入港で行われている様な「抑圧者側との対話」(*)、「祈りの集会・ゴスペルを歌う集会」、「ハンガーストライキ」などが、今後有効になってゆくと思います。 (*)抑圧者側との対話については、1968年(まだソ連が崩壊していなかった頃)、チェコ-スロヴァキアで見られた光景を思いだします。いわゆる「プラハの春」という出来事です。この事件の詳細について話していると時間がいくらあっても足りませんから、ごくおおざっぱに言うと、チェコはソ連の言うことを聞かないとの理由で、当時のワルシャワ条約軍(ソ連軍が3分の2)が、1968年8月20日に突然チェコ・プラハに侵攻した事件です。いまのウクライナ戦争と似ていますね。 「いたるところ、建物の壁、壁、壁は標語と手製のポスターで埋め尽くされた。いたるところで(市民は)製版印刷されてきた新聞やビラを読み漁った。占領軍が製版阻止にやっきになっていたにもかかわらず、その光景は、国境を越えた闖入者(ワルシャワ条約軍)に対して、武器なき受動的抵抗において見事に一つになった都市住民が対応する光景のひとコマだった。チェコ-スロヴァキアの国旗や国家の紋章が、様々な形で街頭や店のガラスを飾った。人びとは襟に国旗や国紋を飾った。どこだろうと、誰かがソヴィエト軍の銃弾に犠牲になると、そのあたり一面花と国旗を飾って追悼式が行われた。道路標識は取り外され、変更され、しばしば「ドプチェク(チェコの指導者の名前)通り」と改名された。ときには、まったく別の標識に取り替えられた。」 この様子は、宮田光雄が「非武装国民抵抗の思想」の中で、非暴力の市民防衛の模範的実例として高く評価しています。ごく最近、ウクライナ戦争が起こってから半年の8月26日の朝日新聞天声人語でも、この出来事を取りあげ、「力に屈したかに見えたプラハ市民も水面下では抵抗の精神は失わなかった。結局抗う心を戦車で踏みにじることはできない」と述べています。 もう一つ、これで思い出すのは、ドイツ・ライプツィヒのニコライ教会の出来事です。 →共有画面-11 最後にもう一つ、非暴力で悪を暴き、正義を獲得した、今日この集会にZoomで参加して下さっている金福禮(きむぼんね)さんの国、韓国での「ろうそく革命」を見てみたいと思います。 →共有画面-12 韓国の朴槿恵(パク・クネ)元大統領の腐敗に対する国民の非暴力による抗議活動です。
2016年10月29日の夜、ソウル市で最初の徹夜ろうそく集会が行われて以来、抗議する人々の数は瞬く間に膨れ上がり、同年12月初旬にはソウル市だけで200万人を超えました。 2017年5月9日の大統領選で野党第一党の候補、文在寅(ムンジェイン)氏が当選しました。
非暴力によるこのようなシナリオの実行には、厳しく忍耐強い長い時間がかかりますが、人の命の犠牲を最小化する、社会インフラの破壊を最小化すると言う観点、特に尊い人命の犠牲の最小化という最優先の観点から、実行に値するシナリオであると私は確信します。 以上が、私に示された具体的選択とシナリオ、そして事例でありますが、最後に、この様な事態になった時、イエス・キリストならば、どう言われるであろうかということを、考えてみたいと思います。 ひとことお祈りします。 2022.11.3. 無教会全国集会 主題講演(Zoom) 共有画面 1)ネットエクレシア信州 「ウクライナに於ける戦乱と平和の回復」 2022.5.28 タケサトカズオ https://www.netekklesia.com/home 日本友和会『友和誌』734号 2)講演録「戦争体験をこえて」 2005.6.18 水戸 潔 3)ウクライナ、ゼレンスキー大統領がとるべきであった選択 4)抗戦、非戦の現実的対比 5) 1.榊原昭二「沖縄・八十四日の戦い」1994年 岩波書店 2.沖縄県立図書館レファレンスデーターベース、 3.ウイリアム・シャイラー「ベルリン日記」(筑摩書房、1977) 4. 長谷川公昭「ナチ占領下のパリ」(草思社、1986) 6)宮田光雄「非武装国民抵抗の思想」(岩波新書、1971、 2004年アンコール復刊) 7)マイケル・ランドル「市民的抵抗-非暴力行動の歴史・理論・展望」 8)1940年6月14日 ナチドイツ軍のパリ無血入城 ![]() (ナチドイツ軍のパリ入城に涙するパリ市民/出典:NHK「映像の世紀」から) 9)1.「ジュネーヴ諸条約及び追加議定書」 10)1.ジュネーブ条約締約国(抜粋) R:批准 A:加盟 2.第1追加議定書(1977)の主な内容 11) ドイツ・ニコライ教会、平和の祈り 12)韓国、ろうそく革命 (https://alfpnetwork.jfac.jp/e-magazine001_06/) 13)マルコによる福音書13章14節 「山に逃げなさい」 ![]() |