04.主題講演


「非戦・降伏という選択」
―ウクライナ戦争から考える―

水戸 潔

プロフィール
1942年サハリン・マカロフ市生まれ。
22才、学生時代信仰に導かれ、24才より無教会の中で信仰を培われて今日に至る。現在、浜松聖書集会所属(2002年~)、浜松市憲法を守る会共同代表(2004年~)、日本友和会会員(2004年、2018年~理事長)、キリスト教愛真高等学校理事(2009年~)。

(※編集者注:文中の「共有画面」は22-23頁に掲載)

 ただいまご紹介いただきました水戸です。
 今回、この全国集会のテーマは「キリストの平和」でありますが、私は、私たちにすでに与えられているキリストの非戦平和思想から、一般の人びとにも通じる応用問題として、戦争という試練が迫ったとき私たちはどのような選択をすべきであるかという問題意識で「非戦・降伏という選択―ウクライナ戦争から考える―」という標題を掲げさせていただきました。

 みなさんご承知の通り、今年2月24日突如ロシアがウクライナに武力侵攻してから8ヶ月が過ぎました。ロシアのプーチン大統領は、この行動は「特殊軍事作戦」であり、当初数日で終わると豪語しておりましたが、終わるどころか今日で約8ヵ月経過し、なお収束の見通しはありません。人の命、社会インフラの毀損は止むことを知りません。

 この様な事態に対し、マスメディアは、特にテレビの報道は、興味本位にこの情勢を分析して視聴者に情報を提供しているように私には思われてなりません。これを見ているとテレビの将棋か碁の解説番組を見ているような錯覚に陥りそうです。

 この様な戦況の成り行きに対する興味本位の関心ではなく、この様な事態を起こさない、あるいは起こりそうになった時、どう対処するのが尊い命と社会インフラの毀損を最小化できるのか、そして平和につながるのか今日は根本的に考えてみたいと思います。

 最初に、ウクライナのNATO加盟意志がロシアに脅威を与えているというロシアプーチン大統領のウクライナ侵攻のレトリックに対し(その他にも複数の理由があげられていますが)、それは理由になっていないということ、つまりプーチン大統領の侵攻理由には正当な根拠がないということから確認しておきたいと思います。

 そのことは、「ネットエクレシア信州」というネットページの中で、ペンネームで、タケサト・カズオという方が「ウクライナにおける戦乱と平和の回復」という主題の中で適確に述べており、私はそこからそのことを学びました。→共有画面-1

 それは、そもそもウクライナが紛争を抱えている現在、それはNATO加盟の条件に合わないので加盟できないという現実です。そのことは、プーチン大統領も知っているはずなのにこの様なレトリックを使っているのです。
 ロシアの侵攻が嘘によって固められていることを、象徴的に感じた私が観たロシアの国営放送の一場面を紹介しておきたいと思います。この侵攻が始まった頃ですが、ロシアの可愛い少女がイスに座っていまして、大人の人が取り囲んでいました。少女が大人の人に「ウクライナには私のお友達もいます。ウクライナの子ども達は大丈夫でしょうか?」と尋ねると、大人の人はかがみ込んで、いかにも優しそうに「ロシアは、子供のいるような、戦争と関係ないところは攻撃していないから大丈夫だよ。」と言いました。これは嘘で、その頃ロシアはウクライナの学校や病院、劇場など、戦争と全く関係のないところを無差別に攻撃していたのです。これはいまも変わっていません。
 このように、そもそも子供や国民に嘘を言わなければならないような戦争は、根本的に間違っていることは、直感的に分かることです。

 さて、単刀直入に、このような事態になる前に、ウクライナには、戦うこと以外に他の選択肢はなかったのでしょうか?
 私は、要約にも書きましたように、結論的には「ウクライナは中立を表明し、NATO加盟を放棄し、ウクライナ全土の非武装宣言をした上、非戦・降伏を選ぶべきであった」と思います。 →共有画面-3

 これは、この戦争がかくも長引き、夥しい命の犠牲と瓦礫の山の荒寥たる風景を見たがゆえの「だから、ゼレンスキーの判断は間違っていた」という事後の状況判断ではありません。  こちら側に落ち度がなく、攻められそうになっても、あるいは攻められても非戦・降伏という選択をすべきであるという私の考えは、今から17年前、2005年6月18日の私の「戦争体験をこえて」という講演の中ですでに表明したもので、それは今も変わりません。 →共有画面-2

 戦争において最も痛ましいものは、何の罪も落ち度もない幼子や、抵抗・防衛の手段を持たない弱者(母親、病人、老人、障がい者など)の命の犠牲です。これを目の当たりにすると、非戦・降伏という選択をすることが、戦うという選択をすることよりはるかに犠牲が少ないと思われるのです。

 その対比を、共有画面-4に揚げておきました。これは2005年の講演の時に示したものですが、もう17年も経ちましたので、現在の状況に合うように表現を修正しています。

 さて、この講演の中で、非武装、非戦が最も犠牲が少ないということの例として、沖縄慶良間諸島の前島の出来事を紹介しました。
 1945年3月アメリカ軍が沖縄の慶良間諸島に迫ってきたとき、他の島では夥しい死者を出したのに、一人の犠牲者も出さなかった島がありました。それが、前島という当時人口270人たらずの小さな島です。米軍が迫る前、日本軍はここに軍事施設を築こうとして、日本軍の鈴木常良陸軍大尉の部隊がこの島にやって来ました。
 その時、この島の国民学校の校長であった比嘉義清という人が、首をはねられるのを覚悟して、軍事施設の建設を思い止まるよう鈴木大尉に懇願したのです。その理由は、軍事施設があると、必ず攻められる、攻められると必ず犠牲者が出るからですと、述べました。当然「バカモノ、貴様は何を言うか!」と一喝されますが、必死に懇願し、引き下がりませんでした。すると、この鈴木隊長も偉い隊長で、比嘉校長の言い分を聞いて、結局軍事施設の建設を思い止まって去ってゆきました。こうしてこの島は非軍備の島となったのです。
 この結果、米軍がこの島に上陸してきたとき、この島は非軍備の島で戦闘員は一人もいないと分かると、米軍は何も攻撃せずに去って行きました。結果、他の島では夥しい死者を出したのに、この島は一人の犠牲者も出さずに済んだのでした。
 私はこの話を、朝日新聞の記者だった榊原昭二という人の書いた「沖縄・八十四日の戦い」(岩波書店 1994)という本で知りました。→共有画面-5
現在では、共有画面5-2に挙げておきましたが、「沖縄県立図書館レファレンスデータベース」で詳しく知ることができます。

 さて私はこの事例を非武装非戦が犠牲の最小化につながる道だということを示したつもりで引用しました。ところが、私の講演の記録を読んだある人が、私に「水戸さん、それは相手がアメリカ軍という紳士的な軍隊だったからであって、これがナチの軍隊のような残虐非道な軍隊であったら、こうはならなかったと思う」と言いました。
 私は、当時勉強不足ということもあって、それに反論することもできず、そういうものかなと思っていました。しかし、なにか、引っかかるものがあって、その後ナチス・ドイツ軍の振る舞いについて、少しずつ学んでゆきました。

 そうしたら、なんと、こんな事実が分かってきました。
 1940年6月、ナチス・ドイツ軍がパリに迫ったとき、フランスは、賢明にも非武装地域宣言をし、実際に、軍隊も軍備もパリから撤収したのです。
 実はこの時(詳しくは後で述べますが)、1977年に制定された現在の国際条約であるジュネーブ条約追加議定書(「非武装地帯攻撃の禁止規定」が入っている)はなかったのですが、アメリカを通じてフランスの意志がヒトラーに伝えられ、それがヒトラーに了解されたのには驚きを禁じ得ません。

 この非武装地域宣言は6月12日、アメリカを通じて、ヒトラーに通告されました。そして、6月14日、ナチス・ドイツ軍は、整然とパリに入城します。その時、パリの市民が涙を流してドイツ軍の入城を見ている写真が残っています→共有画面-8

 パリ市民は涙を流していますが、この時パリでは一人の死者も、一個の建造物も破壊されることもなかったのです。前島と同じ事が実はその5年前にフランス・パリですでに起こっていたのです。私は勉強不足でこの事を知らなかったので、2005年の講演の時、この話はしませんでした。

 このパリ無血入城の様子をウイリアム・シャイラーというアメリカの新聞記者が「ベルリン日記」(筑摩書房、1977)と言う本に書いていますが、ナチス・ドイツ軍侵攻後(9日後)、彼シャイラーがホテルを出てパリ市内に行くと、なんと子ども達は公園でシーソー遊びをしており、大人はセーヌ川で釣り糸を垂れていたと書いています。→共有画面5-3
 この本の少し後1986年、長谷川公昭と言う人が書いた「ナチ占領下のパリ」(草思社)にも「占領前に、パリの市民たちは、ドイツ軍が侵入してきたら、商店や銀行は略奪の対象とされ、女たちは片っ端から強姦されるのではないかとおびえていたものだが、予想に反するドイツ軍兵士たちの紳士的な態度に、安堵の胸をなで下ろしたばかりか、一部の市民はドイツ軍に畏敬の念さえ抱いたほどである」と書いています。 →共有画面5-4

 私は、非戦降伏をことさらにハッピーに示そうとしてこのような引用をしたのではありません。戦争が勃発したとき、あるいは攻撃が始まろうとするとき、非戦・降伏と言う選択が、その時の犠牲を最小化するという実例を示したかったのです。しかし、非戦・降伏の後はそう甘いものではありません。
 実はこの後、5年に亘ってパリのドイツに対する忍耐強い抵抗運動が繰り広げられ、少なからぬ犠牲者も出ました。しかし、本格的な戦争よりはるかに犠牲は少なかったのです。

 しかし結論として言うならば、この事態に対して決着をつけたのが結局軍事であった事は、歴史の示すところであり、例えば1966年に製作された有名な映画「パリは燃えているか」などを観れば明らかです。

 しかし、それで良いのか。つまり最後は軍事で決着をつけてもらうということでよいのか。ここに私たちが克服しなければならない課題があります。
 攻められようとしているときに、非戦・降伏という選択は、犠牲を最小化するという観点から、正しい選択であると、私は確信します。

 そしてそれを裏付ける法的根拠として、いまは非武装地域の攻撃禁止、無防備の民間人の殺戮禁止という国際禁止条約があります。これがジュネーブ条約第一追加議定書です。   →共有画面9,10

 第二次世界大戦終了後、戦時における人道上の守るべき規定を定めた国際条約・ジュネーブ条約は1949年に定められ、2019年現在、世界196カ国が締約しています。もちろん日本も締約しています。その後これに追加する形で、1977年、第1追加議定書ができて、この中に「非武装地域の攻撃禁止規定」が盛りこまれました。
 ある国が、自国を非武装地域と宣言し、現実に非武装化し、戦うことを放棄した場合、そこを攻撃することは国際条約違反になるという事です。
 この条約には、ロシアもウクライナも1989,90年に、批准・締約しているのですから、これを守る義務があり、守らなければ、重大な国際条約違反となります。

 ちょっと横道にそれますが、この第一第二追加議定書について、共有画面10-1をご覧下さい。他の国はほとんど1980~90年代に早々と締約しているのに日本は非常に遅く、2004年迄締約しませんでした。 私の知る限り、締結国196カ国の中でダントツに遅い部類に入ります。これは不自然に見えませんか?  実はアメリカは、この追加議定書には今もって締結も加盟もしていません。ここに日本の批准締結が遅れたヒントがあるように思いますし、研究の価値があると思いますが、今日の主題とは離れますので、このくらいにしておきます。

 本題に戻ります。共有画面-3に上げておきましたが、もしウクライナが中立を表明し、NATO加盟を放棄し、ウクライナ全土の非武装地帯宣言を発出して、非戦降伏を表明したら、ロシアはもうそこで、ウクライナを侵攻する口実はなくなるのです。レジメで「プーチン大統領の侵攻口実をゼロに還元する」と書いたのは、そういうことです。 韓国から参加されている方もいるのに、こんなややこしい言い回しを使って申し訳ありません。

 さてレジメにも書きましたが、今は地上の10センチ四方の物体でも明瞭に認識できる人工衛星が地球を回っており、カメラを備えたドローンが飛び交い、市民のほとんどはカメラ付き携帯電話を持つ時代です。

 国際社会が監視している中で、ロシアは非武装地帯宣言を出したウクライナに侵攻し、無抵抗の国民を殺害し、学校や病院、教会などを無差別に破壊するでしょうか。もしそれをやるなら、ロシア自身が批准締結しているジュネーブ条約第一議定書に、明確に違反します。
 従って私はその可能性は限りなくゼロに近いと思います。なぜなら、そのような残虐非道な行為に対し関心を示さない国際社会や、それに拍手を送るロシア国民の姿を想像することは私にはできないからです。

 しかし、それでも、現在のプーチン大統領の本音のイデオロギーや思想を見ると、残念ながら無駄な武力は使わないにしてもウクライナを侵攻し、ウクライナをロシアの属国にする可能性が高いでしょう。

 ここからが次の課題です。
 私たちはそこから、どのようにして主権と尊厳、領土を非暴力で回復して行くかというシナリオを持っていなければなりません。そういうシナリオと確信を持って、初めて非戦・降伏という選択ができるのです。逆に言うと、そういうシナリオを持たずして、非戦降伏の選択をすることは、国民に対して無責任であります。

 いま言ったシナリオについては、さまざまな研究、検討がなされていますが、私は①宮田光雄の「非武装国民抵抗の思想」(岩波新書 1971)と、②マイケル・ランドルの「市民的抵抗」(新教出版社 2003)をあげておきたいと思います。→共有画面6、7
 特に、宮田光雄の著は、非戦・降伏によって他国に支配された国家及び国民が、非暴力でいかに主権と領土、民族の尊厳を回復して行くか、信仰的確信に裏打ちされた普遍的なシナリオを示しているように思います。
 宮田光雄はこの著の中で、「平和論者には防衛の戦略論がないと言われ初めてすでに久しい」と言っております。
 この言葉は、私には「平和論者は『祈っています、願っています』と言うばかりで、その先を考えていない」という皮肉に聞こえてきます。
 この著は、敗北から始まる非暴力による主権と民族の尊厳の回復の確かで冷静な現実的なシナリオを提示しています。そして普段、平和時の非戦平和活動のあり方についても、詳細に論じております。

 侵攻支配された国民が非暴力によって侵略国に対して抵抗する方法として、例えば「不服従・非協力」「サボタージュ」「ストライキ」「デモ」「抵抗のシンボル=サイン、リボン、バッジ」、「印刷物/ビラ」「地下放送」「国際社会への働きかけ(経済支援と制裁)」など、非暴力による粘り強い行動が、一つずつ実を結んで行きます。

 私はこれらに加えて、新しい手法として「普段からSNSを使った非暴力平和勢力のネットワークを構築しておくこと」、いま辺野古や土砂搬入港で行われている様な「抑圧者側との対話」(*)、「祈りの集会・ゴスペルを歌う集会」、「ハンガーストライキ」などが、今後有効になってゆくと思います。

(*)抑圧者側との対話については、1968年(まだソ連が崩壊していなかった頃)、チェコ-スロヴァキアで見られた光景を思いだします。いわゆる「プラハの春」という出来事です。この事件の詳細について話していると時間がいくらあっても足りませんから、ごくおおざっぱに言うと、チェコはソ連の言うことを聞かないとの理由で、当時のワルシャワ条約軍(ソ連軍が3分の2)が、1968年8月20日に突然チェコ・プラハに侵攻した事件です。いまのウクライナ戦争と似ていますね。
 この時、プラハの市民、特に若者は、戦車の前に立ちはだかり、ソ連兵との論争や議論に持ち込み、ソ連の誤りを糾弾しました。チェコを解放するのだと言われて派遣されたソ連兵は立ち往生し、その士気は急速に衰えて行きました。
 マイケル・ランドルの「市民的抵抗」に、その時のプラハの次のような状況描写があります。p116

 「いたるところ、建物の壁、壁、壁は標語と手製のポスターで埋め尽くされた。いたるところで(市民は)製版印刷されてきた新聞やビラを読み漁った。占領軍が製版阻止にやっきになっていたにもかかわらず、その光景は、国境を越えた闖入者(ワルシャワ条約軍)に対して、武器なき受動的抵抗において見事に一つになった都市住民が対応する光景のひとコマだった。チェコ-スロヴァキアの国旗や国家の紋章が、様々な形で街頭や店のガラスを飾った。人びとは襟に国旗や国紋を飾った。どこだろうと、誰かがソヴィエト軍の銃弾に犠牲になると、そのあたり一面花と国旗を飾って追悼式が行われた。道路標識は取り外され、変更され、しばしば「ドプチェク(チェコの指導者の名前)通り」と改名された。ときには、まったく別の標識に取り替えられた。」

 この様子は、宮田光雄が「非武装国民抵抗の思想」の中で、非暴力の市民防衛の模範的実例として高く評価しています。ごく最近、ウクライナ戦争が起こってから半年の8月26日の朝日新聞天声人語でも、この出来事を取りあげ、「力に屈したかに見えたプラハ市民も水面下では抵抗の精神は失わなかった。結局抗う心を戦車で踏みにじることはできない」と述べています。

 もう一つ、これで思い出すのは、ドイツ・ライプツィヒのニコライ教会の出来事です。 →共有画面-11
 ライプツィヒのこの教会は、あのシュバイツアー博士の所属していた教会で、かってバッハが頻繁に訪れて礼拝演奏を行っていた由緒ある教会ですが、旧東ドイツ時代の1980年代、この教会で東西冷戦下の平和を願う「平和の祈り」の集会が開かれるようになりました。
 特に若い世代を中心に平和への祈りを捧げる人々が集まり、しだいに毎週月曜日に定期的に開催されるようになっていきます。
 そのうち、この祈りを教会の外にも広げようという機運が盛り上がり、市内に広がって行きます。そしてキリスト教徒であるか否かにかかわらず、自由や変革を求める人々が参加した結果、この集会の規模は拡大し、言論や政治活動、旧東ドイツからの出国の自由を求める教会外へのデモへと発展していきました。
 1989年10月9日、7万人もの参加者が「我々国民こそが主権者だ」と叫びながら広場や通りを埋め尽くす大規模なデモが起こったことを機に、東ドイツ平和革命の口火が切られます。ライプツィヒではじまった反体制運動はあっという間に旧東ドイツ全土に広がり、その1ヵ月後にはベルリンの壁が崩壊。1年後には東西ドイツの統一が非暴力で実現したのです。
 真実な祈りは、必ず義しい行動へと突き動かされるのです。そしてこれが、軍事力ではなく非暴力でなされることに価値があります。

 最後にもう一つ、非暴力で悪を暴き、正義を獲得した、今日この集会にZoomで参加して下さっている金福禮(きむぼんね)さんの国、韓国での「ろうそく革命」を見てみたいと思います。 →共有画面-12

 韓国の朴槿恵(パク・クネ)元大統領の腐敗に対する国民の非暴力による抗議活動です。  2016年10月29日の夜、ソウル市で最初の徹夜ろうそく集会が行われて以来、抗議する人々の数は瞬く間に膨れ上がり、同年12月初旬にはソウル市だけで200万人を超えました。
 市民からの強まる圧力に屈した国会は、議員300人中234人(78%)の賛成票をもって大統領弾劾動議を可決しました。憲法裁判所の最終判決を待つあいだ大衆デモは冬を通じて続き、ついに2017年3月11日、大統領弾劾動議は裁判官の全員一致で支持されました。2018年4月6日に大統領は懲役24年を言い渡され、腐敗にまみれた政権は倒れました。

 2017年5月9日の大統領選で野党第一党の候補、文在寅(ムンジェイン)氏が当選しました。
 ろうそく革命の第一段階から毎週行われるろうそく集会を主宰する「朴槿恵(パク・クネ)退陣緊急国民行動」には、全国70の都市から2,300を超す市民団体が参加しました。主催者側の推計では、この期間中、延べ1,600万人が街頭に出た、と報道されています。
 この時、韓国のキリスト教会がどの程度関わったのか、もし時間が許せば、金さんに補足して頂きたいのですが、基本的には、この運動もまた非暴力による義の貫徹を求める運動でありました。

 非暴力によるこのようなシナリオの実行には、厳しく忍耐強い長い時間がかかりますが、人の命の犠牲を最小化する、社会インフラの破壊を最小化すると言う観点、特に尊い人命の犠牲の最小化という最優先の観点から、実行に値するシナリオであると私は確信します。
 そして、繰り返しになりますが、そのようなシナリオをしっかりと持った上でなければ、非戦・降伏の選択をすることは、無責任な選択であるという事を、はっきりと認識する必要があります。
 そして、この様な決断と選択を実行するには、その国と国民に命と義をしっかりと守り通すという価値観と矜恃、エートスがある事が前提です。その意味で、健全な宗教、信仰、信念、そして不断の平和教育が必須である事は言うまでもないことであります。

 以上が、私に示された具体的選択とシナリオ、そして事例でありますが、最後に、この様な事態になった時、イエス・キリストならば、どう言われるであろうかということを、考えてみたいと思います。
 ひとつの出来事として、紀元70年、ローマ軍によってエルサレムが攻撃され神殿は崩壊しました。イエスは、生前この事を予見していたらしく、弟子たちに対して「荒廃をもたらす憎むべき者が、立ってはならない所に立つのを見たら―読者よ悟れ―その時ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。…」(マルコ伝13章14節)という謎のような言葉を語っています。→共有画面-13
 言葉は短く、簡潔ですが、語ったイエスの胸の内には、深い深い思いがあったのだと私は思います。
「山に逃げなさい」とは、どのような事をさしているのか?私は、これには一義的な 「解」(答え)はないと思います。しかし、少なくとも「戦えというメッセージではない」ことは 確かです。この危機が迫ったとき、この世にはもうイエス・キリストはおられませんでした。しかし、当時のキリスト者は、復活し聖霊となられた主イエス・キリストに必死に祈り求めたであろうと想像します。そして、当時のキリスト者は戦争を放棄し国を捨てる決断をし、ペラという所に逃げ、生き延びました。これが当時のキリスト者が到達した一つの「解」でありました。私も、2月24日のロシアの侵攻が始まって以来、祈りを重ね、主イエスより私に示されたひとつの解が「敗北を怖れてはならない。非戦・降伏を選びなさい」ということでありました。私は、主イエス・キリストから示されたこの一つの解を、堅持し、従って行きたく、祈り続けたいと思います。

 ひとことお祈りします。
 天の父なる神様、無教会全国集会の主題「キリストの平和」に対し、「非戦・降伏という選択」という題で、拙い内容でありますが、私に示されたことをお話しさせていただきました。
 イエス様は、危機が迫ったとき、「山に逃げなさい」という謎のような言葉を残して行かれました。私に示された具体的な答えは「敗北を怖れてはならない。非戦・降伏を選びなさい」という事であります。そのプロセスの中に「キリスト平和」があると信じます。どうか、私たちの過ち、罪を許し、地上に平和をもたらて下さいますよう切にお願い申し上げます。
 今この瞬間にも、かの国ウクライナでは、無辜の命が犠牲となり、建造物が瓦礫の山に変わり果てています。どうか、神様、この不条理を一刻も早く終わらせ、ウクライナに平和をもたらして下さいますよう切にお願い申し上げます。
 この祈りをイエスキリストの御名により、御前におささげいたします。アーメン。

2022.11.3. 無教会全国集会 主題講演(Zoom) 共有画面
「非戦・降伏という選択ーウクライナ戦争から考える」

1)ネットエクレシア信州   「ウクライナに於ける戦乱と平和の回復」  2022.5.28   タケサトカズオ https://www.netekklesia.com/home 日本友和会『友和誌』734号

2)講演録「戦争体験をこえて」 2005.6.18  水戸 潔
          http://www7b.biglobe.ne.jp/~h-seisho-shuukai/

3)ウクライナ、ゼレンスキー大統領がとるべきであった選択
  「中立を表明、NATO加盟の放棄、ウクライナ全土の非武装地帯宣言、非戦・降伏」

4)抗戦、非戦の現実的対比
  

5) 1.榊原昭二「沖縄・八十四日の戦い」1994年 岩波書店
    p158「非武装の島」(1945年4月3日)沖縄・渡嘉敷村前島国民学校校長・
     比嘉儀清、  鈴木常良陸軍大尉

   2.沖縄県立図書館レファレンスデーターベース、
    https://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000162146

    3.ウイリアム・シャイラー「ベルリン日記」(筑摩書房、1977)

    4. 長谷川公昭「ナチ占領下のパリ」(草思社、1986)

6)宮田光雄「非武装国民抵抗の思想」(岩波新書、1971、 2004年アンコール復刊)

7)マイケル・ランドル「市民的抵抗-非暴力行動の歴史・理論・展望」
                         (新教出版社、2003年)

8)1940年6月14日 ナチドイツ軍のパリ無血入城
  (6月10日フランス政府がパリを無防備都市宣言)


     (ナチドイツ軍のパリ入城に涙するパリ市民/出典:NHK「映像の世紀」から)

9)1.「ジュネーヴ諸条約及び追加議定書」
  第1追加議定書第59、60条「無防備地域、非武装地帯への攻撃禁止」 (1977年制定)
   (https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/k_jindo/naiyo.html)
  2.  ジュネーヴ諸条約等(締約国一覧)|外務省 (mofa.go.jp)

10)1.ジュネーブ条約締約国(抜粋)       R:批准 A:加盟
   

   2.第1追加議定書(1977)の主な内容
   〔攻撃の禁止〕
  ○無防備地区(第59条)
  ○非武装地帯(第60条)
  ○軍事目標主義(軍事行動は軍事目標のみを対象とする)の基本原則を確認(第48条)
  ○文民に対する攻撃の禁止(第51条2)
  ○無差別攻撃の禁止(第51条4-5)
  ○民用物の攻撃の禁止(第52条1)
  ○文民たる住民の保護(第4編) 敵対行為の影響からの文民たる住民の保護
  ○攻撃の際の予防措置(第57条)等に関し詳細に規定。
  ○(その他の主な規定)・文化財・礼拝所の保護(第53条)
  ○文民たる住民の生存に不可欠な物の保護(第54条)
  ○自然環境の保護(第55条)

11) ドイツ・ニコライ教会、平和の祈り
  (https://news.nicovideo.jp/watch/nw3457746)

12)韓国、ろうそく革命 (https://alfpnetwork.jfac.jp/e-magazine001_06/)

13)マルコによる福音書13章14節 「山に逃げなさい」